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【カレッジを終えて】生本カレッジに参加して|北倉武昭

2020年12月29日(火)

日々の中でおぼえる違和感や好奇心を探求する、大人の自由研究。

大人の… 自由研究…。

なんて魅力的なことば…だろうと思いつつ、クルミドコーヒーでの説明会を受けて、私よりも年齢が圧倒的に若いカレッジマスターを見て、応募期間を終わっている中での「大学にあることは、何でもあります精神」にすがって裏口入学で「生本カレッジ(仮称)」に在籍することができた。

 

カレッジは、カレッジマスターの対応も含め、誰かに導かれて進んでいくのではなかった。
毎回、今日は、何をしましょう? 次回は? インターカレッジがありますけど、どうします?研究はどこまで進んでいますか? 自由研究の提出日は? どんなものを提出するの?シェアの仕方は? などなど…。

 

意見は出ても、それで方向性が決まるわけではなく、「大人の自由研究なのだから、(誰かに合わすのでなく)大人として自由にやりましょうよ…」が大きな流れであり、各自がカレッジとどう関わるのかを問われ続けられる場であった。

 

自分の研究といえば、「提出物は、形にこだわらない」となった時点で、仏像を彫ることに決めた。
知識や経験は、全くないが、やってみたいという気が昔からあった。
入学の際には、考えてもいないことだったが、国分寺産の木を使い、仏像を彫ることで何を感じるかを考えてみたくなったのだ。

 

ただ物事はそう簡単にうまく行かず、木に巡り合うまでに一苦労。
手に入ってからも、実際に掘り始めるまでにも時間がかかり、コロナ感染が拡大し始めた頃から、作業が始まった。

 

彫刻刀を持つことは、中学生以来のことだったし、ノミと木槌をもって、トンカンすることは根気がいることだが、一番は、木は削ると、形が変化するので、一回一回が真剣勝負。
素人の手作業なので、思い通り進むことはなく、木が割れてしまわないようにと手加減をしても、上手くはいかず、彫りすぎてしまえば、そこから軌道修正が繰り返し続く感じだった。
仏像づくりは、自己選択をしながら生きている人生を体現することなのか?と感慨にふけったこともある。

 

コロナ禍で仕事をする中、時間を見つけてトンカンと作業をする。
気がつけば、毎回、集中・熱中して、没頭していたことに気づく。
顔を彫ることで、全てが台無しとならないか? などの葛藤を越えたり、どこまで彫り続けるのかを決めることが出来たのも、良い意味で提出期限があることで救われた。
また、どんな作品となっても、大目に見てくれるだろうカレッジの仲間がいることが励みになり、自分なりにさいごまで仏像を彫り続けることができた。

 

単に提出期限がある応募などの活動ではなく、月1回ペースだが、進捗状況や、お互いの関心ごとを話すことが出来る場があったからこそ、続けられたのだと思う。
提出日直前の各自の大焦りなど、子どもの頃の「夏休みの自由研究」と同じドタバタがあったようだが、「生本カレッジ(仮称)」は、「大人の自由研究」ができる、大人として貴重な場であった。

 

北倉武昭

 

自由研究作品「逆さ微笑みコロナ仏」